祝☆令和元年

皇太子殿下は第126代天皇として御即位され、

『令和』の御代が始まりました。

 

今日は5月1日です。

 

 

日本人のほとんどの人々が

天皇という存在を

意識する時ではないでしょうか

 

ここで少し日本人として、

我が国のことを

子ども達や外国の人達に

説明できるようにしたいですね!?

 

 

世界で一番古い国、

永く続いている国、

歴史がある国はどこでしょうか?

 

 

子どもや孫達に質問してみて下さい。

 

 

 

中国→×

エジプト→×

トルコ→×

 

 

正解は

 

『 日本 

 

です。

 

皆さんは

「皇紀(こうき)」

「紀元節(きげんせつ)」

という言葉を

聞いたことはありますか?

 

 

これらはの意味は

「古事記」(712年)や

「日本書紀」(720年)では

【紀元前660年2月11日に

日本の初代天皇である

神武天皇が天皇に即位なさった】

とされています。

 

 

そして、その日を

日本の紀元(国が始まった日)と決めたのが

「紀元節」で

明治5年から昭和23年まで

祭日になっていました。

 

しかし戦後、

GHQ(連合国総司令部)が

日本人の精神文化を根絶する一貫として

昭和22年に祭日は廃止されました。

 

歴史を忘れさせる為の

教育制度が実施され

古事記を読む日本人は激減しました。

 

 

その後、

紀元節を復活させようとする声が高まり

「紀元節」から「建国記念の日」と名を変え、

昭和41年に国民の祝日となりました。

 

(祭日は皇室を中心とする神道のお祭りの日

という意味なので、

祭日から祝日になりました。)

 

 

なので私達は

現在西暦を使っていますが

2019年は

「皇紀2679年」

になります。

 

 

今でも皇室では

初代天皇に対する

祀りごとが行われています。

 

あのギネスブックにも

「最古の王家」として

「日本の皇室」が載っています。

(西洋で言う王家の意味と

皇室は性質が違いますが)

 

 

ちなみに世界で二番目に古い国は

デンマークで約千年です。

 

 

中国は三千年や四千年と言われていますが

中国大陸は政権をとる民族の入れ替わりが激しく

三百年以上続いた国は無いのです。

 

 

今の中国「中華人民共和国」は70数年程です。

 

イギリスは約950年、

アメリカは約240年程です。

 

 

欧米の文化・文明は

狩猟民族であるため

「弱肉強食」を基本としてきたのです。

 

「強い者が弱い者から奪う」=略奪

 

「強い者が弱い者から搾取する」=植民地

 

「強い者が弱い者を強制的に働かせる」=奴隷

 

 

それが大航海時代になり

世界中を略奪して植民地にしました。

 

 

アジアやアフリカにも

古い国はあったのですが

すべて地上から消されてしまいました。

 

 

立場を変えてみると

大英博物館などの大量の展示品の数は

その略奪と殺戮の証です。

 

 

 

日本はその中でも

唯一、鎖国が出来た国であり

(列強国でも日本を略奪できなかったのです)、

唯一、植民地支配されなかった国なのです。

 

日本は農耕民族であり

大自然と共生しなければ

作物は育てるこてができないので

大自然すべてに神が宿り

八百万の神として願いを、

祈りを捧げてきたのです。

 

 

その祭祀の代表が

天皇と考えられていたので、

日本においては

権威と権力は別々に機能してきたのです。

 

 

 

鎌倉、室町、戦国時代と

権力と領地の奪い合いはありましたが

超越的な天皇の権威を侵すことは

どんな権力者でもできなかったのです。

 

むしろ利用することに策を練りました。

 

 

明治維新の「大政奉還」などは

世界の中では特殊なこと(不思議なこと)なのです。

 

 

 

天皇家の存在が日本の国を存続させたのです。

 

 

 

 

子ども達が

自分の国に自信と誇りを持ち、

国を愛する心を持つことは

どこの国々でもとても大切なことです。

 

 

日本は残念ながら

戦後74年GHQによる「W・G・I・P」

(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)

で学校教育やメディア操作により

真逆のことを日本人に洗脳することに

成功しているのです。

 

 

 

令和元年という今日を機に

世界で一番永く続いてる国、

日本の本当の歴史を深く認識して

子ども達に伝えられる大人になりませんか?

 

 

 

すべては子どもの未来のために❤

【徳間書店「世界が憧れる天皇のいる日本」より】

からの抜粋です。

長文ですが参考になります。

 

「なぜ天皇は日本人にとって特別な存在なのか」

天皇の権威は「神格化」からくるものではない

 

 バチカン教皇庁のローマ教皇や

かつてのオスマン・トルコの皇帝、

ロシア帝国のツァーリが、

権力と権威の両方を持つことは知られている。

 

 日本の天皇は権威を持っているが、

権力者ではない。

 

権威というものは

たいてい長い歳月を経た

伝統から生まれるものが多いが、

「造神運動(ぞうしんうんどう)」、

いわゆる「神格化」によって

作り出されるものもある。

 

その一例としては、

文革中、毛沢東を神格化しようとした

「造神運動」がある。

全民運動による物量作戦で、

毛沢東が毛沢東思想と

マルクス・レーニン主義の最高峰として

不動の権威を確立したことはよく知られている。

 

 

 日本の天皇が

神聖視されるようになったのは

明治維新後からではない。

 

「現人神(あらひとがみ)」

「現御神(あきつみかみ)」

と呼ばれたのは、

日本人のごく自然の感情の発露であって、

神格化された神ではない。

伊勢神宮を参拝するため近鉄宇治山田駅に到着された天皇、皇后両陛下。左は20年ぶりに携行される「三種の神器」の剣=2014年3月25日午後、三重県伊勢市(沢野貴信撮影)

大日本帝国憲法に

「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(第一条)、

「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(第三条)

という記載があるが、

それは権威に関する記述であって、

国家の大事はほとんど議会、閣議で決定し、

天皇が独断で決めたことはない。

 

 

 和辻哲郎(わつじてつろう)は、

天皇は「現御神」であっても

「ヤーヴェやゼウスのように

超自然的超人間的な力を振るう神なのではない」

として

「御自らも神仏に祈願せられる」という

祭司としての神だと指摘している

(『尊王思想とその伝統』)。

 

 『聖書』の「創世記」では、

人間は天の父によって

「つくられた」

ものだとされている。

 

これに対し、

日本人は

「神から生まれた」

もので、

神とは直接血がつながっているとされる。

 

初代の神武(じんむ)天皇の開国は、

武力によるよりも

天照大神(あまてらすおおみかみ)からの

血のつながりによってなされた伝統的権威であって、

新たに「造神運動」などする必要がなかった。

 

 

 天皇の真の使命は祭祀(さいし)だ。

それは祭主としての

神聖観からくる使命である。

即位の後の大嘗祭(だいじょうさい)において、

進退をつねに三種の神器とともにしている

ことからも明らかである。

神武天皇以来、125代の天皇の中で、

かつて「天皇親政」といわれる時代もあったが、

それでも天皇が絶対的権力を牛耳って

国家を支配したことはない。

 

「君臨しても治めず」だった。

 

 日本人の精神史から見て、

天皇を神聖視するのは、

はるか国家成立以前からである。

 

和辻哲郎は、

「天皇の神聖な権威は

国民的統一が祭祀的団体としての性格において

成り立ち来るところにすでに存する」

(同右)と指摘した。

 

 

天皇の神聖性は、

政治的統一が行われるよりも遥(はる)かに

古い時期に形成されたものなのである。

 

 近代欧州の王権については

「王権神授説」がある。

 

西欧の神はGOD(ゴッド)であり、

宇宙万物を創造した唯一の神で、

超自然的な存在である。

その神から王権を授かったとするのが

「王権神授説」である。

 

 一方、日本は「神授」とは違って、

神代(かみよ)から「自然神」であり、

神は神から生まれ、

神は葦(あし)の芽(め)のように

自然から生まれたものと考えられている。

 

縄文文化を見ても、

自然神信仰のアニミズムである。

自然を神とする信仰から、

天皇が神を祭る祭主として神聖視されるのも

ごく自然な感情で、

「造神運動」から神格化されたものではなく、

自然からごく自然に生まれた自然の感情である。

 

 大日本帝国憲法と並ぶ「

皇室典範(こうしつてんぱん)」には、

皇嗣(こうし)が皇位を継ぐ

践祚(せんそ)に際し

天皇が「祖宗ノ神器ヲ承」とあり、

「祭主」としての相続のあり方が明記されている。

 

 

 日本は祭りの国として知られる。

全国各地でさまざまな祭りが行われ、

住民が絆(きずな)を育(はぐく)む場

ともなっている。

 

その土地その土地の

神社を中心に行われることが多いが、

精霊を慰める盆祭りなど寺院中心の祭りや、

神社と寺院が半々のものもある。

神社によって祭祀の様式に異なりはあるが、

だいたいが「国安かれ民安かれ」と

日常の罪(つみ)穢(けが)れを

祈りによって禊(みそぎはら)祓いするものである。

五穀豊穣(ほうじよう)を祈る

天皇の祭祀となったものだった。

新嘗祭に臨まれる天皇陛下=2013年11月23日、皇居・神嘉殿(宮内庁提供)

天皇は国の祭主として、

全国の主要神社に幣帛(へいはく)

(神への供え物)も供進している。

 

つまり天皇は国の祭祀の中心的祭主にほかならず、

祭主としての君主として、

日本人に仰がれてきたのである。

それが天皇と国民を結ぶ紐帯(ちゆうたい)となり、

天皇が国体の中核的存在になったのだった。

 

 

 福沢諭吉は

『帝室論(ていしつろん)』(1882年)に

「古代の史乗に徴するに

日本国の人民が此(この)尊厳神聖を用いて

直に日本の人民に敵したることなく

又日本の人民が結合して

直に帝室に敵したることもなし」

と書いている。

 

 

 洋の東西の歴史を見ると、

国と民が敵対することが多いものである。

たとえば易姓革命の国、中華の国は、

「有徳者」が天命を受けて

天子たる皇帝に即位する

ということを建前としているが、

実際には天意と民意が異なる場合が多い。

だから皇帝に基づく国権を重んじ、

民権に反対してきたのである。

 

 中国では、

「国富民窮(こくふみんきゅう)(貧)」

という言葉があるように、

国富と民富とは対立するものなのである。

「剥民肥国(はくみんひこく)」、

民をしぼって国が肥(ふと)る

という成語も生まれた。

 

奴隷や愚民が理想的な人間像だから、

ヘーゲルが「万民が奴隷」と定義する

東洋型独裁専制の代表的な「国のかたち」こそ、

中華帝国なのである。

民は王朝とはまったく利害関係を共有しないので、

「生民」「天民」とも称せられるのだ。

 

 

 天皇が国体の中心となる国、

日本の天皇が神聖視されるのは、

統治者としての君主であることよりも、

祭主であることによるのだろう。

「昔の日本人は天皇を知らなかった」のウソ

 

戦後日本の「進歩的文化人」は、

「江戸時代の日本人は天皇の存在を知らなかった」

という主張まで始めた。

 

これに対して

里見岸雄(さとみきしお)(1897~1974)は

著書『万世一系の天皇』で、

こうした進歩的文化人らは

ただ2、3の特例を拾って、

維新前の大部分の日本人が

天皇を「知らなかった」と結論づけているが、

その論証はあいまいで漠然としており、

史実とはかなり乖離(かいり)している、

としている。

 

 

 もし日本人が

天皇の存在を知らなかったとすれば、

幕末のあの強烈な

勤王思想(きんのうしそう)が、

庶民の間にですら

盛んな勢いで沸き起こったことを説明できないし、

明治以降の

国民の天皇崇拝意識もあり得ない。

薩長(さっちょう)によって

とってつけられたような天皇の権威であるなら、

決して君民一体の

大日本帝国は生まれなかったはずである。

江戸時代の民間文化や伝説の多くは、

皇室の雅(みやび)に対する

庶民の憧(あこが)れ

によって生まれたものである。

 

たとえば雛祭(ひなまつり)は

もともと宮中の伝統行事だったが、

江戸中期以降に庶民の間でも流行した。

雛人形は天皇を象(かたど)った

人形にほかならない。

 

庶民の間に流行した

歌舞伎の戯曲(ぎきょく)や俳句、短歌でも、

よく日本は「神国」と表現されたが、

それは天照大神の子孫である

天皇が治める国々という意味である。

 

庶民に人気の

「お伊勢参り」も

「皇祖参り」以外の何ものでもなかった。

 

明治初年、

奥羽の住民は

古来の注連縄(しめなわ)を門前に張って

天皇の行幸(ぎょうこう)を仰(あお)いだ。

これも天皇が

天照大神の子孫であることを

知っていたからである。

祭りが大好きな日本人が、

最高の祭主が天皇であることを

知らなかったなどとは、

どうしても考えられない。

 

 

 大君の征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)、

徳川の権力の根拠はどこにあるかといえば、

それは天皇から付与されている

という一言につきる。

 

 

 國學院大學教授の

大原康男(おおはらやすお)氏は

著書

『現御神考試論(あきつみかみこうしろん)』

(暁書房)で、

日本人は天皇を知らなかったという説について、

はっきりと論拠だとする資料が

ほとんど提示されていないことを指摘している。

 

 江戸中期に来日したオランダ商館長、

ティッチングなど西洋人の日本見聞録には、

日本の元祖は天皇であり、

将軍はそれの武官であると記されている。

 

 西洋人の日本見聞録にさえ

書かれているぐらいのことを、

日本人が知らないことがあるだろうか。

武士にしてもほとんどが

源氏か平氏の末裔(まつえい)と名乗り、

自らの先祖が皇祖とつながっていることを

意識していたのはいうまでもない。

武士だけが知っていて、

庶民が知らないということはないだろう。

もし江戸時代の日本人が

天皇を知らなかったら、

「尊王攘夷(そんのうじょうい)」

を掲げることもなかっただろう。

 

 

 戦前戦後の天皇観に

大きな変化があったことは事実である。

天皇を戴く日本の国体は、

神代の時代から続く、

「万邦無比」(世界唯一)の国体だからだ。

 

 古来、天皇は

日本の国土を統一した大和朝廷の後継者としての

政治的、権力的天皇と、

国の祭主としての

日本伝統文化の集約者、代表者という

天皇観があった。

繰り返しになるが、

天皇は国を代表して

国家、国土の祭祀を行う祭司王

ということである。

 

大嘗祭や践祚などは、

その皇権の権威と正統性を伝えるものだからだ。

 

戦後は、

「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」

と日本国憲法にも明記されている。

「万邦無比」の論拠の1つとなっているのが

「万世一系」である。

「万世一系」論は、20世紀初頭の

辛亥(しんがい)革命(1911年)後に

清(しん)王朝が崩壊した後

支那(しな)学者や東洋学者から国学者にいたるまで、

日本人はしきりに

易姓革命の国と「万世一系」の国を比較した。

清国旗

清朝末期に制定された欽定憲法大綱は、

明治の帝国憲法をモデルに

「万世一系」の文言まで条文に入れたが、

戊戌(ぼじゅつ)維新も立憲運動も、

清の皇統と皇帝の権力を護持することに

成功しなかった。

 

満洲人の主張によれば、

満洲史は支那史とは並行して

5000年を有しているという伝説があるものの、

太祖(たいそ)のアイシンカクラ・ヌルハチが

後金国を建国してから約300年の歴史しかなく、

日本とは異なり神代からの

「万世一系」とは言えなかった。

 

 

 実際には

天皇国家日本に類似する国体が20世紀の初頭、

アフリカの高地エチオピアに存在していた。

 

しかしこの国体は1974年に消え、

今現在「日本の万世一系」の国体は

たしかに「万邦無比」のものである。

 

 

 第2章でも記述したが、

「万世一系」に対する批判は

戦後起こったものではなく、

戦前にもあった。

 

早大教授、津田左右吉博士の

『古事記及び日本書紀の新研究』

『神代史の研究』

などの文献学的批判は有名である。

 

 

 また、こちらも繰り返しになるが、

戦後、江上波夫東大名誉教授が1948(昭和23)年に

「騎馬民族征服王朝説」を説くと、

大きな話題を呼び、論争になった。

水野祐(みずのゆう)早大名誉教授が

1952(昭和27)年、

『日本古代王朝史論序説』を著して

「万世一系」思想を否定し、

いわゆる「三王朝交替説」を説く。

古代日本では、互いに血統の異なる3つの王朝が

交替していたとする説である。

 

 

 春秋戦国(しゅんじゅうせんごく)時代以前の

黄河中、下流域の中原(ちゆうげん)地方も

血縁が異なるどころか、

夏(か)人、

殷(いん)(商)(しょう)人、

周(しゅう)人

など3つの異民族が

約2000年にもわたって

混合されて形成された文化集団が、

いわゆる華夏の民、漢人の祖先とされている。

水野教授の「三王朝交替説」は、

日本上古史のことで、

実証するには限界があるだろう。

 

こうした「万世一系」否定説は、

考古学、民俗学、神話学、国文学など、

さまざまな分野や論者から出ている。

 

 

 「万世一系」説以外に

「天皇不親政」論も

大きな議論のテーマとして残っている。

 

津田左右吉は「建国の事情と万世一系の思想」

(雑誌「世界」1946年4月号 

『津田左右吉歴史論集』岩波文庫)と題する一文の中で、

「天皇親政論」について、

「国民的結合の中心であり

国民的精神の生きた象徴であるところに、

皇室の存在の意義があることになる。

そうして、国民の内部にあられるが故に、

皇室は国民と共に永久であり、

国民が父祖子孫相承(あいう)けて

無窮に継続すると同じく、

その国民と共に万世一系なのである」

と説いている。

 

 

 実際、超古代史は

「謎解き」の説に止まっていることは

よく知られている。

大和朝廷以後の日本史には、

政権を握った

蘇我(そが)、

平、源(みなもと)、

足利(あしかが)、

豊臣、徳川

などが登場する。

文官もあれば武官もあり、

政体は異なるが、

天皇不親政が伝説となっている。

 

 

 しかし、

天皇不親政についても

批判は少なくない。

 

古代の天武(てんむ)天皇前後の天皇や

中世の後醍醐天皇などは親政した、

戦前の明治憲法では、天皇は国家元首として

統治権の総攬者(そうらんしゃ)

であるとの規定があり、

大権を持っていたので、

戦後の「象徴天皇」とは異なる

などの主張もあり、

天皇論は続いていく。

「現人神」と「ゴッド」の違い

 

中国の日本研究者には、

日本の天皇を「古代からの奴隷主」

と決めつける者が少なくない。

それは伝統的中華史観からではなく、

人民共和国成立後に跋扈(ばっこ)した

マルクス、スターリンの

「史的唯物論」のドグマからくる発想である。

 

 人民共和国政権が成立した後、

伝統的正統主義的中華史観は全面的に禁止され、

革命史観しか許されなかった。

唯物弁証法(ゆいぶつべんしょうほう)に基づく

唯物史観である。

唯物史観の図式によれば、

人類の発展は原始共産社会から奴隷社会へ、

さらに封建社会、資本主義社会、

そして社会主義社会・共産主義社会へと

発展していくというものである。

 

 日本は「日本民主主義人民共和国」の革命成らず、

社会主義社会にまで発展することができなかったと、

中国人日本研究者は考えた。

奴隷社会という

中国の史実と現実からの投影もある。

 

 詩人、政治家、そして古代史研究家でもあった

郭沫若(かくまつじゃく)は、

中国の代表的文化人といえる。

『中国古代社会研究』や『十批判書』などの

著名な著書の中で、

氏は古代中国社会は

奴隷社会だと説いている。

 

 中国近代文学の父として、

神格化された毛沢東とともに

唯一中国で高く評価されている

魯迅(ろじん)が唱えた

中国奴隷史説も有名である。

 

 魯迅は学者の歴史の時代区分に反対し、

中国史を

「奴隷になろうとしてもなれなかった時代と

しばらく奴隷になれて満足している時代」

とに二分すればよいと説いている。

魯迅だけでなく、

中国史を奴隷史と説く近代中国の文人は多い。

 

 人民共和国の国歌

「義勇軍行進曲」は冒頭、

「奴隷になりたくない人民よ、立ち上がれ」

と勇壮な文句で始まる。

 

しかし、

中国人は結局立ち上がることはできず、

「社会主義中国」の中身は

「新しい奴隷制度」にすぎない

とも指摘されている。

 

 マックス・ウェーバーは

中国を「家産制国家」

(支配者が国家を私的な世襲財産のように扱う国)

と呼んだ。

ヘーゲルの定義によれば、

「一人だけが自由、万民が奴隷」という

「アジア型専制独裁国家」の典型である。

人民共和国が「真の人民民主主義」

と誇りにする

「人民専制(プロレタリア独裁)」

そのものが、

まさしく中国政府が自称する

「中国的特色を持つ社会主義」だろう。

 

 

 山本七平(やまもとしちへい)

(1921~1991)によれば、

奴隷制度がないのは、

世界で日本人とユダヤ人だけだという。

 

 

 

 日本人が「現人神」として抱く

伝統的な天皇観は、

キリスト教を信仰する西洋人には理解できない。

自然や人間としての「神」は、

西洋人の「GOD」とは

まったく違うものだからである。

宮内省(当時)の職員運動会を、昭和天皇と一緒に観戦される天皇陛下=昭和22年4月、皇居内の馬場(宮内庁提供)

神話における天照大神は、

一神教に見られるような

唯我独尊的な排他的な神ではなく、

八百万(やおよろず)の神々を集めて

「神集えに集え、神議かりに議かる」

と衆議を命じた神とされている。

その神の直系の子孫として

地上の日本を治めるとされる天皇もまた、

皇族、臣民の補翼(ほよく)、

つまり彼らの叡智(えいち)を結集して

政治を行うのが伝統である。

つまり独裁という概念が生じないのが、

日本の君主制度の一大特色なのである。

 

 

 戦後、現人神の「神」が

「ゴッド」と訳されたため、

アメリカ人は天皇をそう理解した。

天皇が神、ゴッドなどとは

独裁、独断、迷信だと、

GHQが昭和天皇の

「人間宣言」を命令したのである。

しかし日本人は

天皇を全知全能のゴッドのように

考えてはいなかった。

 

日本人は古来、神と通じ、

神の心を体現する天皇を

目に見える神として

「現人神」

と呼んできたのである。

 

天皇は決して

宗教上の「神」

ではなかった。

アルバート・アインシュタイン(共同)

1922年、日本を訪問した

アルバート・アインシュタインは、

早稲田大学の大隈講堂で行った講演で次のように語っている。

 

 「近代日本の発達ほど、

世界を驚かしたものはない。

この驚異的な発展には、

他の国と異なる何ものかがなくてはならない。

果たせるかな、

この国の三千年の歴史がそれであった。

この長い歴史を通じて

一系の天皇をいただいていることが、

今日の日本をあらしめたのである」

 

 さらにこう続けた。

 

 「世界の未来は進むだけ進み、

その間、いくどか争いは繰り返され、

最後は闘いに疲れる時が来る。

その時、人類はまことの平和を求め、

世界的な盟主をあげなければならない。

世界の盟主なるものは、

武力や金力ではなく、

あらゆる国の歴史を抜き越えた、

最も古く、また尊い家柄でなくてはならぬ。

世界の文化はアジアに始まり、アジアに帰る。

それはアジアの高峰、

日本に立ち戻らねばならない」

(『新世紀の宝庫・日本』名越二荒之助著。

アインシュタインの発言については、

田中智學の

『日本とは如何なる國ぞ』〈1928年〉、

雑誌『改造』〈1922年12月号〉

などに多く出ている)

 

 

アインシュタインよりも約6年早く、

1916年に日本を訪れた

フランスの哲学者、神学者で

高名な詩人だったポール・リシャール博士は、

日本に魅せられ、

その後4年間日本に滞在した。

そのとき詠んだ

「日本の児等に」と題する詩に、

日本の7つの栄誉と使命をあげている。

その6番目と7番目を紹介しよう。

 

 

 (6)建国以来一系の天皇を

永遠に奉戴(ほうたい)する唯一の民よ。

貴国は万国に対し、人がなお天の子であり、

天を永遠の君主とする一つの帝国を

建設すべきことを教えるために生まれてきた。

 

 (7)万国に優って統一性のある民よ。

貴国は未来の統一に貢献するために

生まれ来た戦士として

人類の平和を促すために生まれてきた。

アインシュタインの思いと似ている。

 

 

 

 1919年、第一次大戦後のパリ講和会議で

日本は人種の平等を国際連盟の

規約に入れるように提案した。

これは国際会議における

世界で初めての人種差別撤廃の提言であった。

それはアメリカのウィルソン大統領の反対で潰えたが、

その後、日本は有色人種にとって希望の星となった。

そしてそれは、アメリカの黒人たちも同様だった。

 

 アメリカの黒人史の専門家で、

ハンプトン大学や神田外語大学の助教授も務めた

レジナルド・カーニー氏は、

著書『20世紀の日本人』(五月書房)で、

当時のアメリカの黒人たちの

親日感情について記述している。

 

 

 当時、黒人差別を撤廃するために

汎アフリカン運動を組織していた

アメリカのW・E・B・デュボイス博士もその一人で、

1937(昭和12)年に満洲と日本を訪れ、

「日本人ほど知的で礼儀正しく、

清潔好きで、時間を守り、

善悪の判断をする国民はいない」と知り、

「神道とは善悪を見きわめて行動する教義であり、

それを人格化したのが天皇である」

と述べたという

(『世界に開かれた昭和の戦争記念館』展転社)。

 

 

 カーニー氏は、著書の中で、

「日米戦争を喜んだのは

中国人やインド人、

フィリピン人などだけではなく、

アメリカ黒人も同じように喜んだのである。

黒人の中には、

この戦争は『人種戦争』だと公言し、

日本はアジアを

白人から解放する英雄である

というものすら出てきた。

白人優位の神話を根底から覆した日本人。

そんな日本人と戦うくらいなら、

監獄に行った方がましだ。

こんな考えが黒人の間を駆けめぐっていた」

とも記している。

天皇という超越的存在の下の同胞意識

 

明治維新だけがなぜ成功したのかについては、

維新から100年以上が経った今もなお、

魅力と興味を誘う

政治改革の研究テーマの1つである。

 

 近現代、

ことに西力東来後の列強の時代になって、

「維新」(あるいは変法ともいわれる)

をめざしたのは、

決して日本だけではなかった。

 

たとえば日本の隣国を見ても

清末の戊戌(ぼじゅつ)維新、

朝鮮にも同時代に

甲申(こうしん)政変があったが、

すべて失敗した。

戦後、

イランのパーレビ国王の維新(白色革命)

も失敗に終わった。

 

 

 なぜ日本だけが成功したのかについて、

渡部昇一(わたなべしょういち)氏は、

「それは神話の時代以来連綿と続いている

天皇という超伝統的な要素が、

まず先端をきって近代化したためである」

と指摘している。

 

 

 易姓革命の国、

中国で改革維新が唯一成功したのは

中華帝国よりはるか昔、

戦国時代の秦の商鞅(しょうおう)変法のみだった。

これ以外には、

歴代王朝の変法は戊戌維新だけでなく、

宋(そう)の王安石(おうあんせき)変法をはじめ

成功したものはない。

血を流す「革命」しかなかった。

フランス革命もロシア革命も

血の粛清を避けられなかったのである。

功臣や同志に対する血の粛清がなければ、

革命政権は安定しない。

 

 隣邦の韓国(朝鮮)の易姓革命を見ても、

前王朝、あるいは前大統領に対する

血の粛清は凄(すさ)まじいものである。

 

たとえば、現在の朴槿恵(パククネ)大統領は、

政敵を暗殺した安重根(あんじゅうこん)を

民族の英雄として、

大々的に造神運動を進めているが、

韓国人によるジェノサイドは

ほぼ民族の特徴ともなっている。

明末の明人大虐殺をはじめ

朴正熙(パクチョンヒ)時代の

南ベトナム解放民族戦線大虐殺、

近代でも金玉均(きんぎょくきん)や

独立運動指導者の金九(キムグ)や

呂運亨(ヨウニョン)なども

ことごとく政敵に暗殺しつくされ、

朴槿恵大統領の両親朴正熙大統領夫妻も暗殺された。

 

 

 なぜ日本だけが自国民に対する

ジェノサイドを避けられたのだろうか。

そこにも超越的な存在としての天皇の存在と

日本人が持つ同胞意識に理由がある。

 

 

 たいていの社会はないもの、

欲しいものを

「そうである」「そうすべきである」と強調する。

それがごく一般的な常識といえる。

しかしあることと

あるべきことを区別できる人は

それほど多くはない。

 

 

 中華の国は仁義道徳を強調し、

ことに孝は万徳の本だと強調する。

それはそうすべきである

(当為(ダンウェイ))

という願望にすぎない。

 

中国や韓国は家族を大事にする国

だとよくいわれているが、

実際には親子兄弟姉妹の殺し合い、

いがみ合いはほかのどの国よりも激しい。

李(り)朝の例を見ても、

李成桂(りせいけい)が高麗朝から政権を奪ってから、

諸子たちは殺し合い、

第一次王子の乱から第二次王子の乱へと

王位をめぐる殺し合いが繰り広げられた。

それは近現代には

朋党(ほうとう)の争いへと引き継がれ、

朝鮮半島の社会のしくみ、

歴史の掟(おきて)として今日に至り、

南北対峙(たいじ)が続いている。

同胞意識が欠如しているだけでなく、

祖国から離れても、

アメリカの大学で

韓国人学生による銃乱射事件が続出し、

不特定多数の人間に対する恨(ハン)は消えない。

 

 

 なぜ韓国人は政敵に対してだけでなく、

無差別に、誰に対しても恨をもつのだろうか。

日中韓の文化比較はきわめて示唆的(しさてき)である。

そもそも明治維新は、

外圧を受ける中で国内の団結が求められたとき、

佐幕派も討幕派も敵対し得ない、

天皇を中心とした国を造らなくてはならない

と痛感した上での「尊皇攘夷」だった。

 

そこで内戦の危機を最小限に抑えるために、

大政奉還、江戸城無血開城、廃藩置県という

国の大事が無血のまま行われ、

国民のエネルギーを結集し、

さまざまな国難を乗り越えて

近代化を断行できたのである。

中国のような国共内戦や

韓国のような南北戦争を避けられたのは、

天皇という国家の祭主の下で、

日本人同士が同胞意識を持っているからだろう。

これは易姓革命がなくても

維新、改革を可能にした

日本の社会のしくみでもある。

明治維新後では、大政奉還した

徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は

公爵(こうしゃく)にまで列せられ、

徳川家達(いえさと)は貴族院議長を

務め、五稜郭(ごりょうかく)で

最後まで官軍に矢を向けた

榎本武揚(えのもとたけあき)は

海軍卿(きょう)、同じく大鳥圭介(おおとりけいすけ)は駐清国公使に

なっている。

徳川慶喜

徳川慶喜の孫は高松宮妃(たかまつのみやひ)となり、

京都守護職の松平容保(まつだいらかたもり)の孫も

秩父宮妃(ちちぶのみやひ)になった。

そして本来朝敵だった徳川家の家臣たちは

新政府の行政機構の中枢を担い、

引き続き国政を支えていった。

これは中華世界では絶対あり得ないことである。

中華世界では、政敵の一家皆殺し、

いわゆる「滅門」だけでなく、

海外まで逃げ隠れても、

追っ手がどこまでも追いかけてくる

しつこさがある。

 

 たとえば

朝鮮の甲申政変の主役であった金玉均は、

改革失敗後、東京や札幌など転々と逃亡し続けたが、

ついに上海で暗殺され、

その亡骸(なきがら)は朝鮮に運ばれて

八つ裂きにされた。

 

 

 その残酷な有り様を知った福沢諭吉が、

中華大陸と朝鮮の近代化に絶望し、

「脱亜論」を書いたことは有名な話である。

 

 

 台湾では、

蒋経国(しょうけいこく)

(蒋介石の長男で第6代・7代の中華民国総統)

のことを批判的に書いた

『蒋経国伝』の著者で

台湾系アメリカ人の江南が、サンフランシスコで

台湾からの刺客に暗殺されるという

「江南事件」があった(1984年)。

これにアメリカ政府は激怒し、

蒋介石一族の「帝位継承」は

2代目で終わってしまったのである。

 

 

 佐幕派も討幕派も、

「尊皇攘夷」という共通の錦旗(きんき)の前で

一変することが可能なのは、

まさしく天皇という超越的存在があるからである。

内戦のような事態に陥っても、

互いが憎悪や不信に駆られて

徹底的な殺戮(さつりく)を行うことがなかったのは、

天皇という「家長」の下で、

日本人同士が同胞意識を強くもっているからである。

日本国民は貴賤(きせん)を問わず、

この神聖なる天皇という存在の「赤子」であることを喜び、国家と国民が一体感を持っているからなのである。

天皇と日本国民の固い絆

 

戦後、「一視同仁(いっしどうじん)」という言葉は

タブー用語にまではされなかったが、

いわゆる進歩的文化人によって嘲笑(ちょうしょう)の的(まと)として頻繁に引用されている。

 

 しかしこの言葉のいったいどこが悪いのだろうか。

天皇から見れば、

「臣民」であろうと「赤子」であろうと、

国民でも「非国民」でも、

良し悪しを超えて見る立場にあり、

私を超えて「無私」という立場を貫いている。

それは、「天皇制打倒」を狙(ねら)う者

に対しても例外ではない。

 

 

 敗戦直後、日本が食糧危機に直面した際、

日本の左翼政党に率いられた人々が

皇居のまわりを囲い、

「朕(ちん)はタラフク食ってるぞ、

ナンジ、人民飢えて死ね」

というプラカードを掲げ、

米をよこせのスローガンを叫んでデモ行動を行った。

 

 侍従(じじゅう)の一人が

「陛下、あれは共産党の煽動によるデモです」

と言うと、昭和天皇は

「あれも日本国民だろう」

と答えたという。

 

 

 第16代仁徳(にんとく)天皇が

先代の応神天皇から位を継ぐ前に、

さまざまなエピソードがあった。

応神天皇は、

菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子を

皇太子に立てた。

ところが天皇が崩御すると、

皇太子は兄の大鷦鷯(おおさざき)皇子が

天皇に即位するよう望んだ。

兄の皇子こそ人格が優れ

天皇の大位につくべきだと考えたのである。

しかし大鷦鷯皇子は弟の申し出を辞退した。

そうこうしているうちに、

もう一人の兄の大山守(おおやまもり)皇子が

皇太子暗殺をはかったが、失敗に終わった。

 

皇子と皇太子の兄弟2人で

皇位を譲り合うこと3年に及んだ末、

皇太子はついに自殺して兄に皇位を譲り、

皇位についたのが仁徳天皇だった。

大阪府堺市の仁徳天皇陵

仁徳天皇は難波に

高津宮(たかつのみや)を営んだが、

生活は質素だった。

即位して4年目に、

天皇が高殿から眺めると、民家から

かまどの煙が立ちのぼっていないことに気がついた。

「民百姓は貧しいために炊くことができないでいる」

と群臣に相談して、向こう3年間、徴税を止めた。

 

 それから3年後に煙が上がったので、

「朕はすでに富んだ」と喜んだが、

皇后は「宮殿の垣根が破れ、建物は荒れ、

衣裳もぼろぼろ、それなのに、

富んだなどとよくおっしゃるものですね」

と言った。

 

 すると天皇は

「もともと天が王を立てるのは、

民百姓のためなのだ。

民百姓のうち1人でも飢えこごえるものがいれば、

わが身を責めたのだ。

民百姓が豊かならば朕は豊かである。

民百姓が富んでいるのに

王が貧しいということは聞いたことがない」

と答え、さらに3年間、税を免じた。

マックス・ウェーバーが言う

「家産制国家」の中華の王朝とは違って、

日本の天皇家は中国の「家天下」と異なる。

つまり天下の財産はすべて

天子・皇帝のものとする中華王朝とは対照的に、

皇室は古来質素だった。

ことに武家時代にはなおさらである。

 

応仁(おうにん)の乱の時代には、

天皇家は貧乏きわまりないものだった。

第103代後土御門(ごつちみかど)天皇は

1500(明応9)年10月21日に崩御したが、

葬儀にあたってその費用さえなかった。

幕府から1万疋(ひき)の献上金が用意されるまで、

遺骸は43日間も清涼殿北側の

黒戸御所に安置されていた。

天皇の菩提寺(ぼだいじ)である

泉涌寺(せんにゅうじ)で大葬に付されたのは

11月7日のことだった。

 

 その子の第104代の

後柏原(ごかしわばら)天皇が

践祚(せんそ)し即位式を行うときにも

応仁の乱のため費用がなかった。

朝廷は即位式のための

50万疋(5千貫文)の費用さえ

調達することができず、

即位の式典が実現したのは、

践祚から21年後のことだった。

 

 

 戦後日本は一変して、

日本共産党をはじめ、

国外の諸勢力を背後にひかえた者たちが

「天皇制廃止」を掲げ、

「日本革命」と「天皇処刑」を唱えた。

何かあるたびにメディアを動員して、

皇室バッシングを行ってきた。

その一連の策動により、

1993(平成5)年10月20日、

59歳の誕生日を迎えた美智子皇后が

赤坂御所の談話室で倒れ、失声症になる。

そして週刊誌の皇后バッシングが始まった。

熊本地震で避難所となっている益城中央小を訪れ、被災者に声を掛けられる皇后陛下=5月19日、熊本県益城町(代表撮影)

宮内庁は同26日に

皇室への批判に対する反論を発表した。

美智子皇后も

「批判の許されない社会であってはなりませんが、

事実に基づかない批判が

繰り返し許される社会であって欲しくありません」

と文書で回答した。

 

 戦後日本の報道の問題は、

まさしくそこにあると筆者も痛感している。

無責任で悪意に満ちた言論人の驕(おご)りには、

つねに憤りを感じさせられる。

 

 

 どのような世界でも、

戦乱にもなるとそれまでの王権が消え、

地方の有力諸侯などが覇(は)を競い、

王を名乗ることがほとんどである。

たとえば春秋五覇(しゅんじゅうごは)や

戦国七雄(せんごくしちゆう)は

それぞれ公や王と自称し、

五胡十六国の時代は多くの王や帝が乱立した。

そうした例はいくらでもある。

 

 日本では応仁の乱以後、

天皇の存在が薄くなった時代もあったが、

織田信長や豊臣秀吉が

天皇に取って代わることはできなかった。

徳川の武家政治が300年近く続き、

皇室を無力化したが、最後にはやはり、

大政奉還せざるを得なかった。

 

 応仁の乱から明治維新に至るまで、

天皇は権力も武力も、

財力さえジリ貧の時代だった。

即位式も、葬式でさえ幕府や有力な大名から

費用を出してもらってやっと執り行うことができ、

泥棒が宮内に入ってくることさえあったのである。

「無私」の超越的存在としての天皇

 

有史以来、日本人にとって皇室は

「私」のない「公的」存在として考えられてきた。

100%の公的存在であることは

日本の皇室の伝統であり、文化そのものでもある。

 

 法的には明治憲法、大日本帝国憲法と

戦後の日本国憲法にも明記されているが、

近現代になってから、

その考え方にも若干の変化が見られる。

それは、世俗的社会を超越した

国家元首としての存在である。

 

 天皇の超越性について、

福沢諭吉は『帝室論』で

「帝室は政治社外のものなり。

苟(いやしく)も日本国に居て

政治を談じ政治に関する者は其主義に於て

帝室の尊厳と其神聖とを濫用す可(べか)らず

との事は我輩の持論」としている。

 

また、国会開設以前の1888(明治21)年に

『尊王論』を著し、

政党政治は政争をともなうもの、

国論を二分する可能性も潜むので、

その「俗世界」を

「皇室は独り悠然として

一視同仁(いっしどうじん)の旨を体(たい)し、

日本国中唯忠淳(ちゅうじゅん)の

良民あるのみにして

友敵の差別(さべつ)見ることなし」

という天皇は、

あくまで「不党不偏」の立場に立った

超越的、超俗的存在でなければならない

と説いた。

 

 

 吉野作造も「枢府と内閣」の一文で、

「我国に於いて君主の統治し得る

全能の地位に拠り乍(なが)ら而(しか)も

親(みずか)ら統治せず、

唯君臨して自ら国民の儀表たり、

政界紛争の上に超越して

常に風教道徳の淵源(えんげん)たる所に

寧(むし)ろ我が国体の尊貴なる所以(ゆえん)が

存するのではないか」と論じていた。

 

 

 日本の天皇は国家の祭主である以上、

祈りの心を持つ「無私」の存在として

超世俗的な公的存在であることが、

伝統であると客観的にみなされる。

 

 

 ところが近現代になり、

時局時勢の変化に従って、

政局に左右されざるを得なかった。

三島由紀夫は
『文化防衛論』の中で、
「無私」という天皇政治の
本来的性格の
「恐るべき理論的変質」
が始まったのは
1925(大正14)年の
治安維持法制定からだ
と指摘している。

三島由紀夫

治安維持法の制定直後、左翼運動家たちから

「ブルジョア階級が神聖なる国体を

自己防衛の具にして悪用した」 

という批判が上がった。

 

社会主義思想蔓延(まんえん)の危機感から

公布されたこの法律の第一条には、

「国体を変革し、又は私有財産制を否認することを

目的として結社を組織した者」を罰すると規定され、

今日では「天皇制ファシズム」を確立するための

国民の思想統制の道具だったと非難されている。

三島由紀夫によれば、この法律が

国体と私有財産制(資本主義)とを並列したため、

両者はその瞬間同義語になってしまったのである。

無産階級の国体即資本主義とする考えは無知であり、

国体をブルジョア擁護の盾とするのは

国体冒瀆(ぼうとく)だと三島は糾弾した。

 

「経済外要因としての天皇の機能」を認めないのは

唯物論者だけだったが、この法規定によって

彼らの「不敬」の理念が、

誰一人として気がつかないうちに

日本人の間に定着したことを述べている。

 

 

 そもそも皇室は超世俗的な

「公的」存在であり、

私財を有しないのが原則である。

 

明治維新以前に

「禁裏十万石」と称されていたのは、

皇室の私産ではなく公的な経費だった。

 

宮城、京都御所、各地離宮、

正倉院財宝、御用林野などは

決して天皇の私産ではない。

 

 

 昭和天皇崩御にあたり、

政府が今上天皇に対して

皇位継承にともなう

相続税を設定したことは、

戦後政府の皇室、

公人である天皇の伝統を

曲解したものである。

 

 

 さらに戦後の政党政治の建前として、

天皇を政治圏外におくべきだと主張するのも、

天皇の権限を制限する日本国憲法の規定に沿う

などといって好意的に解されているが、

「君臨すれども統治せず」とは

政治からの完全な排除ではなく、

政争には介入しない超越的存在としての

超俗的「無私」の精神こそ天皇の役割、

そして存在理由だ。

だから「政治利用」について

国民からもタブー視されているのである。

真のユニークな日本文化とは何か

 

文化と文明の定義は実に難しく、

国によっても民族によっても違う。

文化が個々にユニークなものであるのに対し、

文明は普遍的で、

どの民族も国家も共有することが可能である。

物質的なもの、ハードウエアが文明で、

精神的なもの、ソフトウエアが文化だと思う。

 

 

 とりわけ日本文化はユニークだと

昔から内外からよく言われ、議論されている。

では、いったい

日本文化の何がユニークなのだろうか。

日本文化のうちもっともユニークな点は何か

と問われれば、

「万世一系」の天皇と平和の社会的しくみ

だと私は躊躇(ちゅうちょ)なく答える。

 

これだけは人類史のどこにもない、

あり得ない、

「万邦無比」のユニークな日本文化である。

1月、フィリピンを訪問し「比島戦没者の碑」に供花される天皇、皇后両陛下(共同)

それはいったい

どこから生まれたものかというと、

日本列島は地政学的、物理学的に

一つの定量空間であり、

それによる自然の摂理と、

社会のしくみからである。

 

そのもっともよく知られ、

共鳴共感、共有されているのが

「和」の原理である。

日本民族が「和」あるいは「大和民族」と

自称し他称されるのも、

この和の原理を共有しているからである。

和の原理は仏教的な衆生(しゅじょう)の思想と

神道的な共生の思想の習合によって生まれた

自然の摂理と社会のしくみであり、

そこから日本人の自然や社会環境に対する

対応力が生まれてきたのである。

 

 たとえば、

平和社会というしくみについては、

「和」や「大和」の社会にしか

生まれてこないもので、

「同」や「大同」の社会なら

必ず抗争や紛争が絶えない。

 

そこが日本と中国や

ほかの国のしくみの違いというものである。

 

 日本は戦後

内戦が起きなかったことはもとより、

江戸時代は300年近く、

平安時代は400年近く、

縄文時代は1万年ほども平和を保ち続けてきた。

そんなことがいったいなぜ可能なのだろうか。

「平和運動」が盛んに行われたためではもちろんない。

平和な社会は自然の摂理と

社会の仕組みから生まれたもので、

日本文化の基層を支えるものである。

だから「平和主義」「平和運動」「平和のしくみ」

について、それぞれの次元から語らなければならない。

これについては別の機会に述べることにして、

もう1つのユニークなしくみが

「万世一系」の天皇である。

 

 天皇が「万世一系」である

ということについては、

さまざまな異議、異論もあるだろう。

 

けれど神代から今日に至るまで、

日本史はいかなる紆余(うよ)曲折を経ても

「易姓革命」はなかった。

古代に王朝が別の一族に変わったという

異説を唱える学者も中にはいるが、

長い歴史において、

律令、摂政、幕藩といった体制、

さらに国民国家の時代に至るまで、

天皇は日本の歴史とともに存在してきた。

皇室の存在を抜きにして

日本史を解くことも語ることもできない

というのが事実である。

日本人の心の中に存在している天皇観は、

それぞれの時代によって違いがあっても、

無視することはできない。

日本文化そのものが

皇室を核に形成されたものともいえる。

 

 社会的条件の変化から

国際環境の変化によって、

人類史にはさまざまな革命があった。

易姓革命だけでなく、

宗教革命や市民革命、

産業革命、社会主義革命、

さらに人間革命と呼ばれるものまである。

 

 

 万物は流転する。

有為転変は世の常で、

文化も文明も文物も王朝も王家も

環境や時代とともに消えていく。

しかしなぜ日本の天皇だけが

「万世一系」の存続が可能なのか、

それこそ「万邦無比」である。

いくら饒舌(じょうぜつ)な論客が

言葉尻(ことばじり)をとらえても、

日本の天皇は今でも存在する。

いくら政情の動揺や激変があっても、

天皇は今でも存在しているのである。

たしかに戦後、

日本は有史以来存亡の危機に直面した。

しかしアメリカの夢も、

社会主義世界革命、人類解放の夢も、

日本の文化伝統に取って代わることはできなかった。

日本人の心情と宗教心は

神代から国生みの物語とともに、

天皇家をコアに続いてきたものである。

どんな革命も文化摩擦も、

文明の衝突も、

日本人の心の奥底にある

天皇との絆(きずな)を

断ち切ることはできない。

 

 

 天皇と国家の関係を考える場合、

ことに近代国家になってから

、天皇は、いっそう国民の心の中で

国民ともにある共生的存在となった。

 

「天皇陛下万歳」と叫ぶのは

日本人のアイデンティティのシンボルでもある。

敗戦後でさえ、

日本国民の95%が天皇を支持している

との調査結果がある

(川島高峰『戦後世論調査事始──

占領軍の情報政策と日本政府の調査機関』ゆまに書房)。

しかも敗戦後であっても、

アメリカの占領政策の遂行には、

天皇抜きには考えられなかった。

日本への進駐軍の目には、

戦争中以上に恐ろしい日本であると映ったことだろう。

 

 戦後日本は「象徴天皇制」である

という言論人が多いが、

天皇はむしろ日本文化とともにある

文化的象徴といえる。

天皇陛下の「お気持ち」を表明したビデオメッセージを放送する街頭ビジョンに足を止めて見入る通行人=8月8日、東京都新宿区(撮影・春名中)

少なくとも近現代史を見るに、
国際環境がどのように変化しても日本が強かったのは、
まさしく日本人の一人一人が
天皇とアイデンティティと価値観を
共有していたからだった。
日本人と天皇は文化、文明を共有していたのだから、
課題も夢も共有していたに違いない。
 ユーラシア大陸に限定してみても、
西洋も中洋(中東・中央アジア)も東洋も、
いかなる文明、民族、国家も、
あたかも歴史の法則のように興亡を繰り返してきた。
ギリシャ・ローマ文明の流れをくむ
イベリア半島やバルカン半島も、
長期にわたってイスラム文明に支配された。
東亜世界だけでなく、インド世界に至るまで、
草原の力に屈したことがしばしばあった。
 中国大陸は万里の長城の存在が
それを示しているように、
異民族の侵入による脅威が度々あった。
五胡十六国(ごこじゅうろっこく)、
南北朝(なんぼくちょう)時代もそうだし、
それ以後も、遼(りょう)、金(きん)、元(げん)や
満蒙の諸民族に繰り返し征服された。
どの国家や民族も栄枯盛衰の運命を辿り、
いったん「易姓革命」が起こったら、
まるで法則のように
歴史循環が繰り返されていくのである。
 世界がこのような状況であったなか、
なぜ日本だけが
「万世一系」「万邦無比」の
天皇の存続が可能だったのだろうか。
このことについて、
比較文化や比較文明の視点から見れば
さらにはっきり見えてくる。
 なぜ天皇が人類共有の貴重な財産なのだろうか。
それは日本の自然の摂理と社会のしくみから生まれ
た「和」の日本文化を物語るものだからである。
戦後アメリカイズムが拡散していく
グローバリズムは、今現在
さまざまなひずみに直面している。
 今こそまさしく日本の文化を見つめ直すときだろう。

黄 文雄(コウ ブンユウ) 

1938年、台湾生まれ。1964年来日。

早稲田大学商学部卒業、明治大学大学院修士課程修了。

『中国の没落』(台湾・前衛出版社)が大反響を呼び、

評論家活動へ。1994年、巫永福文明評論賞、

台湾ペンクラブ賞受賞。日本、中国、韓国など

東アジア情勢を文明史の視点から分析し、高く評価されている。

著書に17万部のベストセラーとなった

『日本人はなぜ中国人、韓国人とこれほどまで違うのか』

の他、『世界から絶賛される日本人』

『韓国人に教えたい日本と韓国の本当の歴史』

『日本人はなぜ特攻を選んだのか』

『中国・韓国が死んでも隠したい 本当は正しかった日本の戦争』『世界に災難をばら撒き続ける 中国の戦争責任』

(以上、徳間書店)、『もしもの近現代史』(扶桑社)など多数。

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